川からの手紙:Tackey編子供の頃にはチャリンコに竿と道具箱を荷台に縛り付けて週末は近所の境川や衣浦大橋に釣りに行った。 魚釣りの上手な子供だった。のんびりした大人たちより、仕掛けを工夫した、ぼくたちのクーラーの方が重かっただろうと思う。 高校時代に黒鯛のフカセ釣りやメバル、アイナメの夜釣りに夢中だった頃、雑誌で紹介されていたルアーなる疑似餌での釣りにぼくたちは興味を持った。 餌を付けずに清流の魚が釣れることが、ぼくをひきつけた。 ぼくの机の中にはオリンピックのスピナーセットが玩具と一緒に入っていた。それは中学生のとき近所の河合釣具店のショーケースにあったルアーを使う当てもなく買っておいたものだった。 ルアー釣りを紹介した本を買って、オリンピックのインナースプールのスピニングリールをわくわくしながら手に入れた。ルアーにはインナースプールが最適といううたい文句を信じて形から入っていった。 当時まだ、国産品はほとんどなかった。ダイワがアブのアンバサダーの真似をしたミリオネアを作ったりしていたが、シマノがバンタムをリリースしたのは、その数年後のことだった。 ぼくたちは自転車で活動していたため、山奥の渓流には行けず、矢作川でシラハエを狙いに出かけた。 初めての釣りで、とにかくルアーで魚が釣れた。釣れなくても魚が追ってくることに興奮した。 それから、シラハエでは満足できず、額田郡の家族向け管理釣場の下流に電車とバスを乗り継いで遠征に出かけた。初めての渓流でスピナーを投げて引っ張る行為を繰り返したがルアーを追う魚の姿を見ることはできなかった。 田んぼのあぜ道でおにぎりを食べていたときだった。 土手下の川からフィッシングベストとウエーダーのアングラー、そうまさに釣り人ではなくアングラーが姿を現した。彼に「釣れますか」と尋ねると、クーラーを開けて30センチの虹鱒を見せてくれた。 ぼくがルアーで釣り上げられた虹鱒を見たのはこのときが初めてだった。 夏休みの良く晴れた暖かい日だった。 それから、3年ほど、短い竿とリール、ルアーボックスだけを持ち、シラハエ、なまず、虹鱒に会うためにぼくは川に通いつめた。 ぼくは大学に入学し2年生になっていた。 大学のFishing愛好会に入会したことで同じルアー仲間ができ、また先輩の車という移動手段を得て、週末どころか、顔が会えば釣りに出かけるという日々を過ごした。大学の近くの豊川水系、矢作川水系はもちろん、岐阜、長野、福井と大きくてたくさん釣れる川を目指して釣行を重ねていた。 国産はもちろん輸入品のルアーを置いてあるショップも増えてきた。 そのころのぼくは、ガソリンランタンのようないぶし銀の光を放つセルタ、水底を這い回るパンサー、安くてオールマイティなブレットンさえあれば、どんな渓流でも可愛い虹鱒や岩魚の顔を見ることができた。 大学の近くに大池という雷魚が生息する池があり、自作ルアーやハリソンフロッグで獲物の大きさを競ったこともあったが、渓流の魅力に見せられていたぼくたちには半年も興味が続かなかった。 また、同じ頃、ブラックバスがぼくたちの対象魚として登場した。 愛知県内では入鹿池、愛知池、牧野池の愛知用水系の池にしか生息していなかった。タックルも全く違うベイトタックルをそろえて繰り出した。 渓流と違い、比較的近い場所であることと、スピナーとスプーンしか知らなかったぼくたちが玩具のような大きなプラグで釣れることがゲーム性を高めていた。キャッチ&リリースの概念もこのとき初めて知ったのだ。 このころ買った輸入もののプラグがプレミアムがついて高額で取引されていることを最近になって知った。へドンのザラスクープ、ザラ2、ミニザラ、クレイジクローラー、タイガー、マグナムトピード、ジッターパブなど、バスがほとんど釣れなかったため、今でも新品同様でタックルボックスの中で眠っている。 大学3年になったころ、イギリスを始めとしたヨーロッパでは普通の釣り方なのだが、日本では極一部のマニアの間でしか実践していなかったフライフィッシングで渓流釣りをすることに興味を持った。 ぼくたち愛好会の仲間にはルアーは砂に水が染み透るように広まったが、フライは一部のフリークだけにとどまった。 さっそく安いフライセットを手に入れ、大学のキャンパス内でキャスティングの練習に励み、鶏の羽根で自作のフライをつくり始めた。 ぼくたちの周りにはフライを教えてくれる人がいなかった。本を頼りに川での実践だ。 ぼくが最初に釣ったのはルアーと同じくシラハエだった。水面に16番のパラシュートドライフライをプレゼンテーションすれば、小さな魚が素早いキスを浴びせてくれる。フライフィッシングに向こうあわせがなく、必ず釣り人が合わせなければ魚は釣れないこと。つまり偶然に魚が釣れることはほとんどないことが、シラハエに教えてもらったことだ。 フライを覚えてから、ぼくは田淵さんと同じ経過をたどることになった。 つまり、ルアー用の竿とフライ用の竿を両方持ち歩くようになったのだ。 もちろんそのために、パッキング専用の「喜楽」の紫色のルアーとフライロッドをタラスブルバのデイパックに背負い込んで渓流を探っていく釣りだ。そして、これまた田淵さんと同じく、フライで釣れないと自信のあるスピナーでの釣りで型の良い虹鱒、岩魚を釣り上げていた。 フライに自信がついて来たのはマテリアルを揃え、パラシュートから子牛の尻尾を利用した浮力性の高いウルフパターンを覚え、フライリールをイギリス製のハーディー、ロッドをダイコーのカーボンロッドに買換え、いっぱしのフライマンに見えるようになってからのことだ。 憧れだったオービスの高価なフライリールは20年以上経過したカナダのカルガリーのショップで旅行記念に手に入れた。今はぼくの宝物だ。リールを巻くときのヂィヂィという鼓動がぼくの心臓の鼓動を高めてくれる。 大学を卒業し社会人になり、週末アングラーに成り下がった。 熊に会ったような渓谷にもすでに10年以上も踏み入れていない。 今は日帰りで大きな魚のファイトが楽しめればいいと思っている。 もちろん田淵さんの「川からの手紙」を読んで管理釣場ではない本当の川に行きたくなる気持ちをくすぐられた。 ぼくには魚と共に川にいた記憶がある。その記憶を今日この瞬間のように思い出すことで穏やかな気分に浸ることができる幸せがある。 久しぶりにタイイングボックスを倉庫から引っ張り出し、ホワイトウルフ16番を巻いてみようか。 そして、フェンウイックのグラスロッドにオービスのフライリールをセットし、ぼくのゲームフィッシングのルーツである可愛いシラハエに遊んでもらいに近くの川に日向ぼっこに出かけようか。 自然のなかに流れる川で魚を相手に夢中になれる穏やかで深みのある不思議な遊び、それがフライフィッシングである。 |